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最後は読み書き力(2) 読書論 02 ~その人にとっての「冊数」の表す意味

 では実際どうやって大量冊数の読破を達成したらいいか。それこそロジカルシンキングの練習のつもりで、解決課題に設定してフレームワークを当てはめて考えてみよう。「解決課題=あるべき姿-現状」のまずは「あるべき姿」は?「うーん、年間3000なんてとても無理なので、1000ぐらいって可能かなあ、でも月に100冊近いのはちょっと無理があるなあ、500ぐらいか?うーん300か?200か?やっぱり現実的に100冊ぐらいがリアリティがあるかなあ、でも週に2冊ペースだぞ、無理せずに月に2冊にしよう!!すると年に24冊か。きりのいいとこで30冊で決定」と、やってしまいましたか?「現状」は?「月にやっと1冊ぐらいだからあともう1冊とちょっと」。次は「何を読むか、だな」と・・・。

 何かおかしくないですか。しっくりこない違和感は感じませんか。「So what? だから何? で、結局?」を考えたでしょうか。「ああ、すいません。少なすぎますよね」と。いやいや、そうじゃなくて、「あるべき姿」に当てはめるのは「冊数」なのでしょうか。今よりもたくさんの冊数を読めるようになって、で、結局何がしたいのか。たくさんの数を読むことが目的のような論調で進んできたので、誤解もあるかもしれない。しかし落ち着いて一歩踏み込んで考えれば、「読書」も「驚異的な冊数」も何かを達成する為の「手段」に過ぎないはずだ。本質に突っ込む、切り込むクセ、習慣が身についていないと、このテキストの論調につられて「よし、頑張って100冊読む」となってしまい、「手段の目的化」に陥ってしまう。「100冊読む」が「あるべき姿」に設定されてしまえば、それこそ娯楽小説、漫画、芸能週刊誌も含まれてくることになる。

 

 読み返してみていただくと、驚異的な冊数をこなしている人たちは、基本その「必要性」に迫られている。「必要性」のない中に、現在のただでさえ暇のない、時間のない生活ペースの中で、たとえ数冊といえども「読書時間」を差し挟むことは現実的に可能だろうか。ほぼ間違いなく100%、最初の12冊で頓挫する。今現状、その必要性はありますか?ここが問題の本質の部分ではないだろうか。

 「たくさん読めるようになれるといいなあ」と思っている人の必要性は、漠然とした知識不足、漠然とした思考スキル不足、漠然とした表現スキル不足の解消である。「漠然」としているということは、「出来るようになれれば、こしたことはない」のであって、今出来なかったら死ぬわけではないし、大損するわけではないし、大恥かくわけではない、ということ。今目の前はそうだが、じわじわと数十年掛けて、搾取され、淘汰されていくことに気づけない。「ゆるやかな右肩下がり」、「こんなはずじゃなかった」と。こうやって「眠ったまま一生を終え」ていく。随分辛辣な論調になったが、でも実際そういうこと。

 

 「漠然と眠ったまま」の人と「必要性に迫られ驚異的な冊数をこなす」人の違いは何だろうか。もともとの頭のいい、悪いももちろん大きな要素ではあるが決定的な条件ではない。賢くなくても必要性に迫られて、ひぃひぃ言ってる人もあれば、せっかく賢いのに、ぶちゅぶちゅと腐っている人もたくさんいる。キース会の方でも、正直あまり脳の質に恵まれてらっしゃらないと感じるが、しかし毎月の課題でひぃひぃ言いながら知恵熱を出して本当に寝込んでしまう方もいる。で、結局こういう方たちの方が事業成果も高い。その差はやはり、「必要性に迫られる環境」によるものだ。「生きるスタンスの置きどころ」だ。

 金融とかコンサルとか知識や情報で勝負している人たちは、気を抜いた時点で割と早めにわかりやすく跳ね返る。灘高やラサールは何か特別な授業や特別なテキストを使うかというと、そうではないようだ。他の進学校と同じだという。何が違うかといえば、やはりその環境における全体の空気、圧力、全員の問題意識ががぜん違い、飛び交う情報もやはり違うという。どういう状況に自分の身を置くのか、これでその後の何十年間が決まってしまう。しかるべき環境に身を置き、しかるべく必要性に迫られながら格闘している人かどうかの目安、一つの数値基準、バロメーターが「冊数」だということ。        (読書論 続く)

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