最後は読み書き力(1) 読書論 01 ~年間3000冊
「3000冊読書の会」なる勉強会グループがある。生涯通産で3000冊ではない。1年間の目標数だ。月に250冊、1日10冊弱。物理的に不可能領域ではない。が、しかし、通常の感覚からするととても無理に思える。この辺りの感覚になると、「読む」という概念は一般的な人のそれとは若干意味が変わってくるだろう。
1日10冊ぐらいの本と格闘することはよくある。その時は大概、レポートをまとめる時、〆切間際、レクチャー前、原稿作成などのような時になる。その時は「読んで」いない。作業をしている。原文を自分の頭で書き進めていく中で、根拠を確認する時、数値を確認する時、例題を探す時、アイデアを膨らませる時、ヒントを見つける時などにそれら10数冊の積上げた本の中から「探す」。
その10数冊の本はランダムではない。自身のアイデアを手がかりにタイトルなどから、恐らくこの本の中に答え、ヒントなどがあるだろうという仮説に基づくベストセレクトだ。中身を全部読んでセレクトした訳ではない。しかし勘は大概当たっていて、やはりそのセレクトした中に何かのヒントは必ずある。
このセレクト作業をするとき、無意識の中で何が起こっているのか。本のタイトルや目次などの断片的な情報からその本の中身を推測している。おそらくこういう内容の本だろう、と。目次だけから推測してほぼ全部の内容のイメージが出来上がっている。そして実際に、それらの本の中から「探す」作業をしてみると、おおむね内容は当たっている。それらの本を頭から最後まで、その文章を「読んで」はいない。けれど、それらの本は「読破」したのと同じだ。一度に十数冊の本を「読破」する作業をした。それを365日続ければ確かに3000冊以上だ。
こんなペースを続ける人の頭の中は本当に「小宇宙」だ。知らない事、分からない事、答えを出せない事はおそらく存在しなくなる。学者や作家の人ならこれに近いだろう。365日は無理でも週に1回こんな作業をしていれば、年間7~800冊、そこまででなくても月に1回なら200冊ぐらいはいけるだろう。その合間にも常に何か読んでいれば、300冊ぐらいは十分あり得る数字だ。
文字づらを目で追って頭で黙読する、まさに「読む」読書なら、100冊もとても厳しい。3日で1冊のペースを維持し続けるわけだから。しかし200冊ぐらいの「作業」と、100冊ぐらいの「読書」以上「作業」以下の「準作業読書」なら、その気になればやれるはずだ。
疑問の声が聞こえてきそうだ。「そんなに本ばかり読んでどうするのか」と。そう思う人はそもそもこの「読書論」の対象外の人だろう。
本を読む意味づけは色々あるが、実際これをやっている人、やれるようになりたいと思っている人、「年間3000冊読書の会」に入会している人、「速読教室」に通っている人は、まずは知的好奇心の異様に強い人だろう。なので、理屈を超えた必要性、根源的な欲求の衝動に駆られる人たちでもあると思われる。
そして実務上、必要性に迫られる人たちでもある。学者、作家はもちろん政治家、官僚、先生士業、コンサルタント、金融マン、プレゼンター、・・・そして経営者。金と力の根源は「知識」にある、ということがわかった人たち。思い知った人たち。知らない事を知る事によって、物の見方や発想、考え方が大きく変化することを知った人たち。見える景色や風景、関わる世界が激変することを知った人たちである。
この人たちは腹の中では思っている、「問題意識の薄い人たちは永遠に眠っていて欲しい」と。世界を「動かす側」と「動かされる側」があることを知り、「動かす側」にいなければ何も始まらない、何も守れないことを知った人たちだということ。とてつもなく欲どおしくて、とてつもなく責任感が強く、とてつもない使命感に駆られる人たちのテーマです。ピンとこなければ、無理せず、眠ったまま一生を終わりましょう。