戦略思考の心・技・体(16) 技「仮説検証・分解技法」(7)~ロジックツリー(体系分類・次元階層化)(2)
ロジックツリーの効能・目的・役割
例えば、店の売り上げが落ちている場合。その原因は「わかってるんですよ。新規が落ちてるんですよね。駅の近くにまた1軒新しい店ができたんですよ。対策としては駅前でハンティングします。基本、みんな面倒くさがってハンティングへ行きたがらないんで、それも原因としてはあると思います。店長もあまり言いたがらないんですよ。もう私が自らはっぱをかけます。」と。普通にこんな感じ。あるいは「あの新しい店は安いんですよね。うちもキャンペーン組んでチラシ撒きます。」と。普通にそうなるが、問題はそれで解決するのか?という問題。それこそ一時的な改善は見られるかもしれない。しかし、上記のような認識程度だと、新しい店ができるたびに同じことが繰り返されることは容易に想像できる。論点は2つ、1、原因究明はどのレベルまで深堀して追及するのか、2、解決策の選択はどのレベルの解決を目指して決定するのか。
まず1つ目の論点は、上記の経営者の感覚だと「営業」面のみに着目して発想している。「商品・サービスクオリティ」はどこでも一緒でそんなに差が出るものではない、ということを無意識の中で前提にしている。だから原因は「新しい店ができた」ことであり「価格が安い」こと、ととらえている。だから解決策は「ハンティングさせる」ことと「キャンペーン組んでチラシを撒く」ことになっている。まあ原因と解決策は対応しており、ずれてはいない。しかし、他人事として客観的に、大所高所から評論家になると、普通に「いや、問題はそこじゃない」とだれしも思うはずだ。じゃあ問題はどこですか?おそらく人によって意見が雑多に異なってくるはずだ。その人の着目点によって異なるし、その人の一番問題意識を持つ部分によって異なってくる。「どこまでいったてクオリティレベルの問題ですよ」という人もいれば、「教育ができてないですよね」という人もいるし、「いやそもそも立地の問題ですよ」とか、「いや経営者の意識ですね」、「店長というポジションは本当に中途半端な奴が多い」、「店舗デザインは意識してるんですかね」、「たぶんWEBを活用できてないですよね」、「なんだかんだで不景気は不景気ですよね、しようがないっちゃしようがない」etc.色々ある。どれが正解ですか?全部正解。
で、何を解決したらいいのか?「でしょ、ぐちゃぐちゃ考えたって結局そうなるじゃないですか。だったら余計なこと考えずに何でもいいから目の前の問題をつぶしてきゃあいいじゃないですか。」それも正解。おそらくこの人はロジックツリーみたいな難しいことは必要性を感じない。かたや、複数雑多な原因が入り乱れて頭が混乱した時に「とにかくこの状態をもっと構造的に整理して、まずは全体像を客観的に把握したい」と思う人がいる。あるいはおかれた環境的に、「このプロジェクトに投資家からかなりの投資がされている」、「プロジェクトのリーダーとして100人近い人がそれに基づいて動く」、「小さな店だけどそれでも数人の従業員たちの生活がかかっている」、などの責任がかかった場合など、体系建てた構造整理ができていなければ致命的だ。この頭の整理をすることに藁をもすがる気持ちで、「何か方法はないのか」と必死で編み出された方法であり、必要性を感じる人にとっては、「知らなかったらと思うとぞっとする」というフレームワークである。
次に2つ目の論点。では1の論点の場合、それに対する具体的な解決策はどうするのか?「いやそれは最終的にはもちろん全部ですよ」と。では、今その時点から自身は具体的に何をし、従業員には何を具体的に指示するのか?「ええまあそのあたりをまずは整理します。」と。次の日に整理はできただろうか?「いやまだ昨日の今日ですから」と。そして1ヶ月後、「今月はばたばたと忙しくて」と。半年後、「うーん特に進んでないですね。でなんの話でしたっけ」と。1年後、「また新しい店ができたみたいで、また今年もハンティングとキャンペーンですね・・・」。結局何一つ具体的な改善はされないままに年月は過ぎていく。具体行動に移せるレベルまで作業を進めておかないと普通にこうなる。で、そもそも何を解決すればよかったのか?きっかけとして何に困って、何をどうしたいと思ったのだろうか。つまりHOW型ロジックツリーの出発点、テーマはどう設定するのが適切なのだろうか?そこに答えがないのに、解決策にたどり着くはずはない。真の原因にたどり着いていない、もしくは複数の重要な解決課題は絞れたけれども、重要頻度や優先順までが決められていなければ、HOW型のテーマを決めることすらできない、ということ。鍵は、論理整合性が通り、構造整理された、原因の把握だ。
この事例のお店のシナリオとして、その後毎年緩やかな右肩下がりは続き、従業員も誰もいなくなったものの、店の営業は70才まで続けることはできた。よかった。1世代前の通常のシナリオだ。何か問題があっただろうか?「うーん、それはそれで一つのあり方だし、別に何かがいけないわけではないですよね。まあ自分はそうなるつもりはありませんけど。」という、漠然とした感想しか持てないと、ロジックツリーの必要性自体を感じにくいかもしれない。かたや、とてつもないリアリティを感じ、そんなつもりはなくても十分起こりうることだと自身にも思い当たることを感じ、最悪のシナリオだと、想像するだけで恐怖を感じるという人もあるだろう。シナリオの別のパターンとして。5年後、近隣に5つの新しい店ができ、従業員は2人減り、売り上げは5年前の80%程。10年後、とうとう1人営業で売り上げは半分以下、頭の中の半分ぐらいは店を閉めて次どうするかを考えている。15年後、惜しまれながら閉店。壮年55才、子供たちは大学、高校。何か問題あるだろうか?これからの時代、普通に起こりうる真実。その時に言おう、「こんなはずじゃなかった」と。
誰しも必ず思うはずだ。経営をしていくうえで、肝心なことから順序立てて一通りの課題は解決していきたい、と。何から手を付けていいかわからなくなれば、半パニックからイライラ状態に誰しもなる。自分を言い聞かせるように、焦るな、目の前一歩ずつ確実につぶしていけ、と。うまくすすむことと、思うようにいかないこと、さっとすませようと思ったことほど、想定外のトラブルも重なり、進まない。そもそも、こんなことやる必要があるのかと。「もうええわこんなこと、省略してまえ。」と。ころが時間差でそのことがボディブローのようにじわじわと、ささやかな障害となってストレスを増幅させる。「もうなんやねん、くそっ!」と、結局考えたってなるようにしかならないとなって、すべてがのるかそるか、当たるか外れるか、無意識の中での習慣化してしまう「バクチ営業」へと化していく。打ちひしがれた経験の蓄積のたまものだ。
苦労してやったことが、思ったような成果に直結しなかったとき、脳の中の報酬系は裏切られ、その苦労した事柄に意義を感じないようになってしまう。見返りと、そのために努力することがリンクしていないと、やっても無意味だと感じてしまうことが山となって蓄積してしまう。「面倒くさい」の正体はこういうこと。日常のルーティンワークがこちらの蓄積に脳内で処理されてしまえば、毎日の仕事に面白みを感じられなくなっていく。頼みの綱は義務感と習慣だ。義務と習慣は無思考だ。こうやって無思考人間になっていく。一生やっていかなければならない仕事の中で、モチベーションやる気スイッチが入らない、入れられない、いや消滅してしまっているのである。経営がうまくいくとかいかないとか以前の悲しい不幸だ。基本サラリーマンという人たちはこれが普通である。経営者というスリリングな生き方のメリットが生かされていないのはもったいなさすぎる。要は報酬と努力項目の因果関係を成立させながら進めていくことが重要だ。「どうしたいのか」に直結することをしたい。でもこの整合性があっているケースは実は極めてまれだ。テーマが違うので詳述は省くが、普通にそうなるということ。さらに言うなら「報酬」をどう設定するのかによっては「長期化」「持続可能性」の問題に大きく影響を及ぼす。これもテーマが違うので違う機会に。なにせ「どうしたい」と「その為には」を一致させていく、現存するベターな方法論がこのロジックツリーである。