最後は読み書き力(3) 読書論 03 ~アマゾン登録、図書館カード
しかし残念ながらそういう環境に身を置きたい、そういう生き方をしたいと思っても、「環境の側」が人を選ぶ。そう簡単にそういう仲間にはさせてもらえない。「動かす側」の選抜であり、「金と力の源泉」だからだ。であれば、自らでその環境を作り上げ、その必要性をつくり出すしかない。 「あるべき姿」の1次設定としては「自らでその環境を作り上げ、その必要性をつくり出す」だ。
では「現状」は?ここはそれぞれの今の現状だ。自分の現状とはいえ、どういう表現を置くのかで、フレームワークの式の答えが変わってしまい、かなり難しい。例えば「そういう環境でもないし、必要性もない」と書いてしまうと、間違いとか正解とかの論点ではなく、回答の幅が広がりすぎてしまい、意思が不在で解答にたどり着かない。むしろ心理、心情表現で「せっぱつまって必死にもがいている。なんとかしたい」のほうが、さっきの表現よりは絞れている。せめての方向性はある。
どういうことかと言うと、「何に」せっぱ詰まっていて、「どう」必死にもがいているのか、「何を」なんとかしたいのか。「何に」と「どう」と「何を」を埋めてやれば、割と具体的になる。しかし恐らく最初はかなり漠然としたものが埋まってくるだろうから、その単語、表現をさらに2次分解、3次分解していく作業を進める。この「現状」の部分の文脈に具体性が出てくれば、今度もう一度「あるべき姿」の設定に戻って、「その環境」と「その必要性」の部分に、「現状」の文脈に対応した具体表現、単語を色々と当てはめてみればいい。そうすれば、じゃあどうしたらいい?の解答の「選択肢の列挙、候補出し」の作業にかなり方向性が付けられる。
解答、解決策の1次列挙の作業段階で選択肢の一つとして、「関連するテーマの書籍を10冊読む」とか、短絡的にしてしまわない。「書籍を読む」とかいう末端具体施策は、もっともっと2次3次以降、後次の分解作業段階での話だ。むしろ「書籍を読む」とかいう表現にはならないはずだ。ありそうなのは、「○○関連テーマの知識を網羅する」とか、「○○系統の単語、キーワードを体系化して把握する」とか、「○○は本当にそう言えるのか、実現可能性を徹底的に検証する」とか、そんな答え、選択肢の表現になりはしないだろうか。
その辺りの表現になった段階で、自然と「ネット検索で情報収集」が始まったり、「アマゾンで関連書籍を探す」はずだ。アマゾンで見つけたその書籍の大量の候補の中で、「どれを読むかを絞る作業」をするだろうし、「中古本の価格調べ」と「候補のうち何冊まで購入するかを検討」するだろうし、予算制約の課題に直面すれば、「公共図書館で検索」するはずだ。目的は「課題の解決策、ヒントを発見」することであり、「書籍を読む」ことは目的にはなり得ない。どこまでいっても「読書」、「読む」こと自体は「手段」であり「方法」に過ぎない。
「アマゾンで関連書籍を探」し、「大量の候補の中でどれを読むかを絞」り、「候補のうち何冊まで購入するかを検討」し、予算制約の課題に直面して「公共図書館で検索」すれば、一連の作業段階で、一体何冊の本と「格闘作業」をすることになるだろうか。全部を読めなくとも、「初めに」や「あとがき」、「目次」などに目を通し、大体の内容のイメージはついていないだろうか。図書館で何十冊積上げて、全部借りるには冊数オーバーだし、制限いっぱいまで持って帰るにも重たいし、限られた時間の中でそれら積上げた本の中から、必要なヒント、解答を見つけたいと必死の形相で取っ組む。こういう絵が常習的になっていれば、ある意味「その環境と必要性を持っている人」といえないだろうか。その人の「生き方のスタンス」を計るバロメーターは「冊数」と共に「アマゾンの登録」と「図書館カード」である。
上記で、「現状」の「何に」、「どう」、「何を」などに表現入れてみて、さらに分解作業を進める。そしてそれに対応する「あるべき姿」の、「その環境」、「その必要性」に具体表現を当てはめる・・・とかあったが、正直これはとてつもなく難しい。残念ながら最初から的確にはめていくのは困難だろう。ロジカルシンキングに慣れていなければ、考え方自体がわからないだろうし、深く考える気質の人は逆に、考えれば考えるほど混乱する。 「結局、何をどうしたがっているんだろう。俺は?」のスパイラルにはまり込みかねない。
でもこういう根源的な問いに正面切って向き合ったことがあるだろうか? そう、で結局、何をどうしたいんだろうか? なんで、大量読書のような自己啓発に取り組もうとしているんだろうか? なんで、知識や情報の先行者になろうとしているんだろうか? なんで、独立起業したんだろうか? とどのつまるところ、一体何をどうしたいのか?・・・
考えて答えが出るという領域でもないだろうし、はしかみたいなもので、引っかかる人はまあまあ深刻に患う。比較的表層的なモチベーションにいざなわれ起業はしたものの、なかなかの困難に覆われたり、逆にうまくいってほっとした瞬間などに、ふっと取りつかれたりする。その答えを求めて滝行に行ったり、禅寺にこもったり、書物の中にヒントを探すことになる。ある意味、大量読書の意義はここにあるとも言える。どうせなら早めに通り抜けておくに越したことはない。神経症やうつにならない程度に。
ただ、ここを抜けて自分のスタンスのはっきりした人の、ブレのない推進力はすさまじい。これを「覚醒」とかいう。無意識で図書館通いの「3000冊の人」だ。 (読書論 一区切り)